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第一話 幻想の中で
-in the illusion-



1

 わたしが圭一さんと暮らすようになって、もう2年経つ。
 関東を襲ったあの大地震で、わたしは両親を失った。 お父さんはどこかの施設の研究員として働いており、お母さんはその手伝いとして、よく二人で仕事に出ていた。 あの日もそうだった。どこで働いていたのか、わたしは知らなかったが、 研究室は地下にあったため、地震によって中が崩壊し、 ほとんどの研究員が生き埋めとなったと、あとから聞いた。 兄姉もおらず、親戚とも連絡が取れなくなり、わたしはあっという間に一人になった。 だけど、悲しみはあまりなかった。あまりに突然すぎたことだったため、心が事実について行かなかった。 そして、一人家の前で呆然と立ちつくしているところに、圭一さんは現れた。
 圭一さんは、自分はわたしの両親の助手だと言い、もし先生達の身に何かあったら、 残してきた娘のことを頼む、と言われていたと言った。そして、君は自分が保護する、と言ってきた。 わたしは最初は戸惑う、というよりは不思議に思った。 いくら師である両親の頼みでも、突然見知らぬ少女を保護するなんて、普通は考えられないと思った。 見た目はわたしより少し大人びた感じで、優しそうな目をし、 ほっそりとした体はいかにも部屋にこもってコンピュータと向かい合って実験ばかりしている、という印象だった。 わたしは考えた。本当にこの人についていっていいのか。わたしはその時初めて両親が死んだことを知らされたが、 この人が本当に両親の助手であるのかどうか、本当に両親は死んでしまったのか、分からなかったからだ。 それに、わたしを保護するといっても、裏には違う理由があるかも知れないと、その時は思った。 すぐに思い浮かんだのは、わたしの体を欲しているからではないかということだった。 身元の無くなった哀れな小娘を助ける。その見返りとして、わたしを自分のものにする。簡単な理由だった。 一般論で言えば、彼に従わないほうがいいに決まっていた。けど、わたしは彼について行くことにした。
 どちらにせよ、両親からは音信はなく、わたしは一人になった。 家は残っていたけど、お金もなく、一人では生きていくことは不可能だと思った。 わたしがついて行く、というと、圭一さんは笑った。遠い昔、どこかで見たことのあるような、暖かい笑みだった。
 わたし達は残された、静かにたたずむ家を後にし、圭一さんが住んでいるというマンションへ向かった。



2

 夜、夕食の準備をしていると、玄関から鍵を回す音が聞こえてきた。 わたしは野菜を切る手を止めて、小走りにキッチンを出た。
「おかえりなさい。」
圭一さんは、丁度中へ入り、内側から鍵を回しているところだった。
「ああ、ただいま。しかし、包丁片手に出迎えられると、なんか怖いんだけどな。」
みると右手には先ほどまで使っていた包丁が握られていた。わたしは「てへへ」と舌を出し、包丁を背中に隠した。
「ご飯、もうちょっとかかるけど、お風呂入っちゃう?」
「うん、そうするよ。」
そういって圭一さんは自分の部屋へ入っていった。わたしもキッチンに戻り、再び料理に取りかかった。 圭一さんは一人暮らしだった。家事全般は大体わたしの仕事となっていたが、 料理だけはいくらやっても上手くならないので、時間がある時は圭一さんが作る時もある。 もっとも、それはほとんど大学が休みの日だが、圭一さんの料理はおいしいので、わたしはそれを楽しみにしている。 一方、それ以外の日はいつもわたしが作るのかというわけでもなく、 コンビニやスーパーでお総菜を買ってきたり、外食で済ませることも多い。
 鼻歌交じりで野菜を切っているところへ、着替えをもった圭一さんが入ってきた。
「ずいぶんご機嫌だね。」
「うん、今日凛ちゃんからおもしろそうな本借りてきたの。」
「へえ、それでか。」
凛ちゃんはわたし以上の読書家なので、色々とおもしろい本を知っている。 それに、凛ちゃんとは趣味が合うので、今度の本も楽しみにしていた。
「お風呂、ゆっくり入ってきてね。まだ時間かかりそうだから。」
「はいはい。それじゃ、頼むよ。」
そう言って圭一さんはキッチンを出て、脱衣場へ向かった。 わたしも気を取り直してまな板を見た。だがここで、野菜を切りすぎていることに気が付いた。
「あ〜あ、やっちゃった。」
圭一さんも決して裕福ではないので、なるべく節約しながら生活しなければならないのだが、 わたしはドジなのでこういうところでしっかり無駄遣いしてしまう。「はあ。」と一息ついて包丁をおいた。
「こんなんじゃ、お嫁さんになんていけっこないよね。」
誰ともなしに呟いた。圭一さんは、今のわたし達のこの関係をどう思っているのだろう。 圭一さんは今26、わたしは今年で20歳になる。端から見れば、夫婦にだって見えないこともないだろう。 わたしは、このまま圭一さんと一緒に暮らしていきたいと思っている。けど、圭一さんは……。
 わたしはコップに水を注ぎ、一気に煽ってから椅子へもたれ掛かるように座った。圭一さんには今恋人と呼べる人はいない。 出来ないのか、作る気がないのか、それは分からない。そしてわたしにも恋人はいなかった。
 出会って少し経ってから、圭一さんはわたしに大学へ進学しないかと勧めてきた。 当時はまだ大神災の余韻が残っていたので、高校も一時休校となり、結局中途半端に卒業することになってしまった。 なぜ勧めたのか訊ねると、圭一さんは「いずれ自分自身の力で生きていくときに、学歴はあったほうがいいだろう」と言った。 それはすなわち、ここを出て一人、あるいは他の誰かと暮らすことを暗示していたのではないかと思った。 わたしは大学へ進んだ。けれど、その日以来、圭一さんと将来のことを話し合うことは決してしなかった。 わたしは今を失いたくなかった。大学を卒業して、就職したとしても、今と同じように、圭一さんと二人でいたかった。
 胸が苦しくなってきた。握りつぶされるような圧迫感があった。いつもそうだ。 圭一さんのことを考えると、いつも胸が苦しくなる。これが恋だということは分かっていた。 今まで人を恋したことなんてなかったけれど、なんとなく分かってしまう。そして、いつも悲しい気持ちになってしまう。
 冷蔵庫の低いうなりが聞こえる中、シャワーの音が聞こえてきた。わたしは立ち上がった。 くだらない考えよりも、今は夕飯の支度をすることが先決だ。わたしの料理で圭一さんが喜んでくれればそれでよかった。 たとえお世辞と分かっていても、「おいしい」とわたしの料理を褒めてくれる、今のわたしにはそれが一番の幸せだった。

 食事のあと、わたしが洗い物をしていると、圭一さんがやってきた。ビールを取りにきたらしかった。 冷蔵庫から冷え切った缶を取り出し、棚からグラスを取った。 圭一さんはあまり大酒飲みではないが、食後や寝る前に1〜2缶ほど飲むことは多い。
「明日は学校あるのか?」
缶を開けながら、圭一さんは訊いてきた。
「うん。午後から。」
「そうか。いいな、学生は。寝坊できて。」
圭一さんは笑いながら言った。大学というところは、高校までとは違って随分と自由がきくところだ。 授業がない日は平日だろうと休みになるし、明日のように午後から始まることもある。 それに、基本的に出席日数が足りていればいくら休んでも単位は取れる。 だから、計画的に休む学生も多い。 考えなしにさぼると身の破滅を招く。ようは全て自己責任。大学とは、そういう場所だ。
 だけど、わたしは基本的に講義には休まず出席する。今年で2年目になるが、 風邪などでやむをえず休む場合を除いては、ほとんど出席していた。 入ったからにはしっかりと勉強したいと思っているし、何より学費の約半分は圭一さんが持ってくれているからだ。 使わなくなったもとのわたしの家と土地はすぐに売った。 しかし、人口は減り、建造物は壊れ、地価が急激に下がったため、たいしたお金にはならなかった。 それでも、学費には十分すぎるお金にはなった。けれど、圭一さんはなにかあったときのために そのお金は取っておいたほうがいいと、わざと使わなかった。 だからといって、学費の全てを圭一さんに負担させることはできなかったので、 結局わたしが6割、圭一さんが4割を払うことになった。
 そうして、圭一さんにも負担して貰っているのだから、みすみすさぼるなんて罰当たりだと思った。 全て圭一さんにお膳立てしてもらった、せっかくの大学だ。4年間で、できるだけ多くのことを学ぼう。 そして、その中で、自分の未来のこと、自分のやりたいことを見出そう。そう強く思っていた。 今はわたしの思いは暗礁に乗り上げているみたいだ。けど、残り2年半の中で、見つけられる。そう確信している。
「明日は遅いの?」
今度はわたしが訊いた。
「そうだな、今日と同じくらいになると思う。」
「それじゃ、またわたしが料理当番ね。」
「頼むな。でも無理しなくてもいいよ。」
そういって、わたしの頭をぽんぽんと叩いた。 子供扱いされているように感じるが、わたしはぽんぽんされるのが好きだった。 圭一さんの手は大きくて暖かい。片手で、わたしを全て包んでしまうような感覚だった。 本当は体ごと包まれたかったが、それはきっともう無理だろう。 圭一さんの心にもきっと刺さっているはずだ。 忘れることの出来ない、あの日の出来事が、鋭い針のように、心の奥に……。
 またちくりと心が痛んだ。けど、痛みはすぐに消えた。 圭一さんは缶とグラスを持って居間へ戻っていった。 わたしは圭一さんといられるだけで幸せなのだ。ずっと自分に言い聞かせてきた。
 たとえ愛されているという「証」がないとしても。

3

 翌日の午後、わたしは家を出た。
 暖かな日射しが心地良く、気持ちの良い日だった。小道を2度曲がれば、商店街の連なる大通りだ。 今の時間帯、あまり人はいなかった。広々とした道路を自分一人で歩くのは、気持ちのいいものだった。
 5分ほど歩くと、駅前に出る。駅の付近にもあまり人はおらず、店のBGMがやけに大きく感じた。 バス停には数人のおばあさんがベンチに座っており、 タクシー乗り場の付近では運転手同士で話し込んでいる、いつもの姿があった。 それらを脇目に、駅のホームへと続く階段を上る。カツンカツンとかかとをつく音が、構内によくこだました。
 電車はすぐ来た。先ほどまでとは違い、3時限目の授業に出席するための学生が多く乗っていた。 座席は空いていなかったし、時間で10分ほどの距離なので、わたしはそのままドアの付近に立っていた。 眠気を誘う一定の間隔で音を立てる車輪、そしてカーブにさしかかるたびに左右に揺れる車内で、わたしはぼんやりとしていた。
 まれにこの世を嫌う人がいるが、わたしはこの世界が好きだ。 こうして車窓から見る景色にしたって、わたしの目には全てが美しく映る。 幻想とも思えるようなこの世界、実際に幻想の世界なのだろうか。 わたし達は世界の中に生きているのではなく、世界がわたしたちの幻想の中にあるのかもしれない。 だが、どちらにせよ、わたしはもっと多くの世界を見るだろう。わたし自身もそう願っている。
 考えているうちにおかしくなってきた。普通の人はこういうことを考えたりはしないだろう。 いるとしても、凛ちゃんくらいなものだろう。
 幻想だろうとなんだろうと、人は生きている限り、必ず何かに直面し、それを乗り越えなければならない。 辛いことであっても、嬉しいことであっても。 そして、立ち止まってしまったら、そこから先へは進めない。自分自身で、また一歩を踏み出さない限り。
 わたしもきっと、今は立ち止まっているのだ。いつかは歩きださなければならない。 わたし自身が強くなって、誰にも頼らずに歩き出さなければ。

 校舎の中は、相変わらず人でごったがえしていた。その雑踏の中で、わたしは1つ、見知った後ろ姿を見つけた。 他の学生にぶつからないように、小走りでその背中にかけよった。
「美里ちゃん。」
美里ちゃんはすぐ振り向いた。そして、「おー遥歩、元気だった?」などといいながら、わたしの肩をとんとんと叩いた。
 遠山美里はわたしと同学年の友人である。明るく快活な性格で、いつも周囲を照らす、太陽のような少女だ。 政経学部の政治学科を専攻しており、授業が重なることはほとんどないが、会えばいつも一緒に話をしたりする。
「楽しくて長い夏休み、終わっちゃったねえ。」
「そうだね。でも、大学が始まればまたみんなと会えるから、わたしは楽しみだよ。」
「あたしはだるくて死んじゃいそう。」
そして、美里ちゃんは大変なさぼり魔だ。
「遥歩、単位いくつ落とした?」
「今回は一つも落としてないけど。」
「ま〜じ〜?あたしあと12単位落とすと留年確定なんだけど。」
「た、大変だね……。」
だが、言葉とは裏腹に、美里ちゃんは笑顔で自分の苦悩談を語った。本当は留年したいのだ。 留年すればするだけ、長く遊んでいられるから、と以前聞いたことがあった。 大学を出たら、恐らくは就職することになるだろう。 大神災によって人口が激減したため、今では高卒でも十分に就職できるため、就職口には困らないと先生は話している。 わたし達も来年には就職活動が始まる。大学生活も、考えてみれば短いものだ。
「お、凛じゃない。おっす。」
わたしはびっくりして後ろを振り返った。両手で手提げを持って、凛ちゃんが立っていた。
「……おっす。」
凛ちゃんも返事をした。言われた挨拶をそのまま返すところが、凛ちゃんらしかった。
「二人とも、次は英語?」と美里ちゃん。
「うん。」
「そう。じゃああたしも英語にしよう。」
何の考えも無しに来たような言い方だった。この自由奔放な生き方を、わたしも少しは見習いたかった。
 そのあとすぐに始業のベルが鳴り、わたし達は教室へ入った。 ところが、夏休みの間の積もる話をするのかとおもいきや、 座った瞬間、美里ちゃんは机に突っ伏して眠る体勢に入ってしまった。 あまり寝ておらず、眠くなったというが、いきなりこれではわたし達の方が恥ずかしかった。
 美里ちゃんの生き様は、わたしには一生真似できないに違いない。

 英語のあとは、わたしと凛ちゃんは東、美里ちゃんは西の校舎に向かうため、階段を降りて外へ出た。 中に入る人と出る人とが一斉にひしめき合い、歩くのでさえ困難なほどだった。 その人混みの中から、美里ちゃんは見知った背中を見つけたようだった。
「お〜い、まいど〜。」
「私は麻衣田です!」
ものすごい形相で、麻衣田ゆかりは振り返った。周囲の目が一斉に集まり、ゆかりちゃんははっとしてこちらに駆け寄って来た。
「美里!なんて恥かかせてくれるの!」
「何よ、あたしはただ名前呼んだだけでしょ。」
「私は麻衣田です!」
ゆかりちゃんは美里ちゃんと古い付き合いらしく、会うたびにこうして周囲の笑いものとなっている。 美里ちゃんは楽しんでやっているみたいだが、ゆかりちゃんはいい迷惑なのだろう。 それに、自分のことを「まいど」と呼ばれることを嫌っている。 彼女はわたしの家の近くのコンビニでアルバイトをしているが、そのことが理由の一つではないかとわたしは思っている。 もっとも、訊くのもはばかられるため、問い質してはいないが。
 一通り美里を叱りつけると、ゆかりちゃんは後ろ脇でその様を眺めるわたしと凛ちゃんの存在に気が付いた。
「あれ、遥歩に凛ちゃん。」
「久しぶり。」
ぱっとゆかりちゃんの顔が明るくなった。彼女はわたし達の中で見た目も性格も一番大人びている。 茶色掛かった長い髪が風になびき、陽の光を受けて輝く姿は、女の目から見てもうっとりするほどだ。 体もめりはりがあって、大人の風姿を漂わせている。 そして、性格も明るく優しくて、周囲の人の心を和ませてくれる。 わたしは明るいゆかりちゃんを見ているのが好きだ。嫉妬心よりも、憧れる気持ちのほうが大きい。
「みんなで一緒に出てたの?」とゆかりちゃん。
「うん。」
「ゆかりちゃんは?」と訊こうとして、隣で美里ちゃんが代わりに先に声を発した。
「ゆかりは?今来たところ?」
「え?うん、まあ。」
少し語尾が口ごもっていた。美里ちゃんはすかさず「何隠してるのよ」と問いつめた。
「別に何も隠しては……。」
「じゃあ一体何で口ごもるわけ?」
美里ちゃんは勢いに乗って次々と責め立てる、そのあまりの威圧さに、 ゆかりちゃんだけでなくわたしと凛ちゃんもたじろぎそうになった。
「ただ、カズ君と会ってただけだよ。」
「カズ君?」とわたしは訊いた。美里ちゃんは面白そうににやけて、「ゆかりの彼氏」と応えた。 ゆかりちゃんに彼氏がいるのは聞いていたが、名前までは知らなかった。 授業前に会っていたのを悟られたくなかったのだろう。 「まあお熱いことで」と、美里ちゃんはからかうように言った。
「ああ、もう。だから美里には言いたくなかったのよ。」
ゆかりちゃんは少し頬を赤く染めて言い返した。 恋人同士会うのに、そんなに恥ずかしがることもないだろう、と心の中で思ったが、口にはしなかった。
 横からくいくいと服を引っ張られた。振り向くと、凛ちゃんが腕時計を指さしながら、「時間」と言った。
「あ、わたし達もう行かなきゃ。次、東の果ての校舎だから。」
大学内は広すぎて、校舎から校舎を移動するのも一苦労だ。女の足では休憩時間を目一杯に使ってしまうこともある。
「それじゃ、美里ちゃん、ゆかりちゃん、またね。」
「おう、またね。さて、あたし達も行きますか、ゆかりさん。」
わたし達は二手に分かれて早足で歩き出した。

 地元の駅に降りたのは、もう太陽は遥か西方へ沈み、燃えるような赤い夕焼けが広がるころだった。 残暑も通り越し、夕時に吹く秋風は、少し冷たかった。
 途中までは凛ちゃんと一緒だったが、彼女はわたしより一駅先まで乗るので、つい先ほど別れた。 ホームには大勢の人でにぎわい、ようやく街の本当の姿が写し出され始めた。 来るときには活気の無かった商店街も、今は無数の人が往来している。子供から年寄りまで、誰もがこの街に生きている。 わたしは、今日も料理当番であることを思いだした。商店街を突き抜けるついでに、今夜のおかずを調達することにした。 揚げ物屋で野菜コロッケとメンチコロッケを2つずつ買い、続く八百屋でキャベツを買った。 そして、商店街を抜けるころには、東の空は段々と暗くなり、いくつか星が瞬いていた。
 今までずっと休みだったせいか、今日は随分と疲れていた。 鍵を開け、ポストに入っていた郵便を居間のテーブルに投げ、買ってきたコロッケとキャベツをキッチンに置くと、 わたしはすぐに自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。 ふかふかのベッドがきしみ、弾力が体を跳ね上げた。ベッドの上は、いつも落ち着く。 部屋の中は暑くもなく寒くもなく、適温で気持ちよかった。 わたしはソックスだけ脱ぎ捨て、するりとベッドの中へ潜り込んだ。 目を閉じればすぐに眠ってしまいそうなくらい眠かったが、 まだ米をといで、ご飯を炊いて、洗濯物を取り込むという仕事が残っている。 だが、頭では分かっていても、体は眠りの誘惑に耐えられなかった。 静かで薄暗い部屋の中、布団の中は至上の空間だった。 そして、瞼を閉ざすと、瞬く間に意識は遠のいてしまった。
 目を覚ましたのは玄関の鍵ががちゃりと開く音だった。 辺りは暗闇に包まれ、一瞬自分がどういう状況にあるのか分からなかったが、 すぐに帰ってきた途端に眠ってしまったことに気が付き、のろのろとベッドから起きあがった。
 自室のドアを開けると同時に、斜め向かいのドアも開き、圭一さんが出てきた。 圭一さんは片手でネクタイをゆるめながら、「おう遥歩」といった。 靴は玄関に脱ぎっぱなしだったから、居ることは分かっていただろうが、 家中真っ暗なので寝ているものだと思っていたらしい。突然現れたわたしに、少し驚いたようだった。
「おかえりなさい。」
わたしも眼をこすりながらいった。
「寝てたのか?」
「うん……」
そこでわたしは、小さく「あっ」と声を漏らした。圭一さんはどうしたんだと訊ねてきた。
「帰ってきてすぐ寝ちゃったから、何もやってないんだ。ご飯の支度も。」
わたしは「ごめんなさい」といって、うつむいた。うつむくしかなかった。 時々こんな自分が嫌になる。自分のやるべきことすら出来ないわたし。結果的に謝ることしか出来ないわたし。 ドジなわたし。そんな自分を惨めに思うわたし……。
 だけど、圭一さんはそんなわたしを支えてくれる。いつものように頭にぽんと手を置き、 「昨日今日と大学だったんだ。疲れたんだろ。」と優しく慰めてくれた。 わたしは、圭一さんのそんなところが好きだった。いつでもわたしを守ってくれる。 いつでもわたしを支えてくれる。圭一さんは、わたしに対してはいつも笑顔で、優しかった。 だからわたしも、いつも元気に、強くなれる。
「ご飯炊くと1時間くらいだから。すぐやるね。」
わたしはぱっと顔を上げ、パタパタとキッチンにかけていった。後ろから「悪いな」と、圭一さんの声が聞こえた。
 夕食後、わたしはお風呂に入っていた。食後に入るのがわたしのこだわりだ。 結局11時を回ってしまっていたが、ずっと寝ていた分、眠気は無かった。 お湯はオレンジ色に濁っており、風呂場はオレンジの匂いで支配されていた。 圭一さんはこのオレンジの入浴剤が好きで、これ以外を使うことは滅多にない。 おかげで、圭一さんもわたしも、いつもオレンジの匂いを発しているような気がする。
 ふと気が付くと、鏡台の脇に見かけない鉢植えが増えていた。今日帰りに圭一さんが買ってきたのだろう。 圭一さんはガーデニングが趣味で、バルコニーは観葉植物で支配されているくらいだ。 その他にも、居間や自分の部屋にも数多く観葉植物をおいてあり、この風呂場にもいくつかおいてある。 湯船から出て、その新しい鉢植えを手に取ってみた。葉は綺麗な深緑をしており、 細い茎の先には包みがかった白い花が咲いていた。 花は甘い匂いを発しており、オレンジの入浴剤とよく調和していた。
 わたしは鉢をもとに戻した。湯気だった白いもやの中で、白い花は幻想のように咲いていた。 だがこれは幻想ではない。その時のわたしはまだ知らなかった。圭一さんが幻想の花と呼ぶ、不思議な花のことを。

 時は10月半ば、いよいよ本格的な秋の訪れを感じだした頃だ。 圭一さんは1つ、鉢植えを居間に飾った。それを見るとき、圭一さんのまなざしには、わずかながら悲しみが宿っている気がした。
 わたしがそれを冬幻想花という花だと知ったのは、もう少し先の出来事だ。

プロローグ

第二話